掲載元:note(2019年4月3日)

https://note.mu/maegawa_shinsuke/n/n49f85a7c19e5

【vol.015】 第1節:物語文章は「人の気持ちを考えろ!」という文科省からのメッセージ

 

 

こんにちは。まえぴょんです。

 

 

昨日はこの先の展望というか、このnoteを最後まで読むとどういう世界が待っているのか、その一部をちょいと紹介しました。まぁとにかく読者のみなさんにはラクになって欲しいんです。もっとラクな人生を送っていただきたい。

 

だからこの講座のタイトルを

 

 

人生がラクになる国語の授業

 

 

としていたわけですが、とは言えそんなのなかなか伝わらないとも思うので、今回から地味にタイトルを変えました(笑)

 

 

人生がラクになる国語の授業 → ラクして賢くなる国語の授業

 

 

やっぱり人は身近で具体的な物事に反応しやすいから、「人生」なんて壮大なスケールの話だとキャッチーじゃないな、と思いまして。

 

結果的に人生もラクになるんやろうけどね。

 



 

 

第5章:物語文章を抽象度で斬る!

 

さてさて、今日から第5章の物語文章の問題に入ります。実はこの物語文章にも「抽象度」という概念が大切なんですよ。ひとまず今はその意味がようわからんと思いますけど。

 

 

 

そもそもなんで物語文章を学ぶの?

 

さて、そもそも(←抽象度UPワード)の話なんですが、小説などの物語文章(文学)って、なんで勉強するんでしょうかね?

 

小学校学習指導要領の中学年(3年生、4年生)の「読むこと」の指導事項には次のように記載されています。

 

 

●説明文・・・

中学年「目的に応じて、中心となる語や文をとらえて、段落相互の関係を事実と意見との関係を考え、文章を読むこと」

 

●文学・・・

中学年「場面の移り変わりに注意しながら、登場人物の性格や気持ちの変化、情景などについて、叙述を基に想像して読むこと」

 

 

まず説明文では単純に筆者の主張を読み解くことが求められているわけです。筆者の主張っていうのはこれまで何度も登場してきた抽象的なやつね。

一方で文学では、登場人物の性格や気持ちの変化を読み取りなさいよ、ってことが求められています。そう、平たく言うと、

 

 

「人の気持ちを考えろ!!!」

 

 

ってことです。

 

そうして登場人物の気持ちを味わいながら読み進めれば、最終的に作者がその作品で描きたかった主題がわってくるだろうから、それを味わいましょうよ、って感じですかね。

 

 

人の気持ちを考えろ!

はい、その大前提がわかった状態で、さっそく例題に取り掛かってみましょう。

 

 

【例題】
真由美は、親友の里美とケンカをしてしまった。
真由美の目から涙がこぼれた。

 

問:「涙がこぼれた」とありますが、それはなぜですか?

 

 

この問題、わかりますか?

 

多くの人がこの問いに対して、「親友の里美とケンカしたから」と答えがちなんですが、ちょいとお待ち。物語文章を読む大前提がありましたよね。

 

 

人の気持ちを考えろ!!!

 

 

これこれ。

 

「親友の里美とケンカしたから」だけだと、そこに人の気持ちが入ってないでしょ?だからこれでは不正解です。

 

 

解答例としては

 

「親友の里美とケンカをして、寂しさが溢れたから」

 

のように、感情が入ってきます。

 

 

 

では次の例題。

 

【例題】
やっと書き終えた読書感想文をタロウに破られたユウキは、タロウの胸ぐらを掴んだ。

 

問:ユウキはなぜタロウの胸ぐらを掴んだのですか?

 

 

わかります?

 

これも、「読書感想文をタロウに破られたから」となりがちですが、違います。それだと人の気持ちが入っていないですからね。

 

 

解答例としては

 

「読書感想文をタロウに破られて腹が立ったから」

 

となります。

 

 

どうですか?これくらいのことならカンタンでしょ?

 

 

 

人の気持ちの考え方って、教えてもらったこと、ある?

 

でも、実際のところね、人の気持ちってなかなかわかりづらいもんじゃないですか?目に見えないし。移ろいでいくし。複数の感情が入り混じってることがあるし。本人だって気づいていない場合もあるし。

 

特に私は女の気持ちがわからないモテない中年おじさんです。

 

最近になってようやくその気持ちが分かるようになってきたけど、若かりし頃はよく失敗していました。例えばかわい子ちゃんが困り顔で相談してきたから、ふむふむ、と相槌打ちながら傾聴して、

 

 

「なるほど。それやったらそうじゃなくてこうした方が解決しやすいんちゃうん?🤔」

 

 

なんて答えてあげたくなるわけですよ。良かれとおもってね。だけどそういう対応をすると、たいてい

 

 

「私はただ聞いてほしかっただけやのに!😤」

 

 

って怒られますからね。こっちからしたら

 

えーーーーーーーーーっ!!!
だってあんたが相談してきたからアドバイスしたのにー😅

 

と思うわけですが、彼女はただ聞いて欲しかっただけだ、と。アドバイスなんぞ要らん、と。

 

こういうのってやっぱりその人の性格や気持ちを分かってあげられない時に起こる悲劇だと思うんですよ。双方に悪気がないのに関係が悪くなっちゃうなんて、悲しいことではありませんか。

 

だから、「人の気持ちを考える」という行為は人間社会で生きていくうえで尊い営みだし、だからこそ体系立てた理論を学ぶ必要があると思っています。

 

 

なんですが、人の気持ちの考え方って教えてもらったことありますか?

 

 

人の気持ちを考えろ!!!

 

 

と文科省は言うてるわけですが(意訳)、私は教育現場で納得できる人の気持ちの考え方を教わったことがないんですね。それでいて人の気持ちを考えろって、ちょっと乱暴だと思いませんか?
(「相手の立場に立って考えろ」みたいに中途半端なのはたくさん教わりましたけど、どれも腹落ちできませんでした)

 

 

人は一人で生きていけない生物です。だからこうして社会を作って繁栄してきました。そうしていろんな人が混在しているこの社会で生き抜くためには、人の気持ちを考えるという行為は必要不可欠です。それを考えないと、前述の通り異性にモテないだけでなく、最悪の場合干される恐れすらありますからね。

 

 

 

道徳なんかで人の気持ちなんて分かるわけないと思うよ

 

その人の気持ちを研究するのに最適な学問は「心理学」なんでしょうけれど、義務教育や高校では「心理学」を学ぶ機会がありません(それなくしてどうやって物語文章の心情問題を解くねん、って個人的には思いますけどね)。

 

 

心理学が履修できない以上、私は人の気持ちを考える術を学ぶことができる教科は国語だけだと考えています。しかし「人の気持ち」という観点では、「道徳」も含まれるんじゃないの?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

 

確かに道徳も人の気持ちを考える教科ですね。ただ、道徳の場合は人の気持ちは考えるけど、その人の気持ちを言い当てる方法を教わるわけではありません。乱暴な言い方をすると、人の気持ちを好き勝手に考えているだけです。

 

 

例えば、道徳的に「人の立場に立って考えろ」みたいなことを教えられますよね。まぁそれは人の気持ちを考えるうえで大切なことだと思うんですが、しかしそのアドバイスだけだと、

 

「私がもしあなたの立場だったらこう考えるけどな。」

 

という、あくまでも「私」の主観で人の気持ちを考えてしまうんですね。だけど、「あなた」の主観は「私」からすると客観なんです。だから「私」が客観的に見ない以上、「あなた」の気持ちなんてわかるはずがないんです。

 

 

 

道徳の教科書に「星野君の二塁打」という有名な話が掲載されています。

 

大会で打席に立った「星野君」は監督の送りバントのサインを無視し、二塁打を放ち、そのおかげでチームは勝利したが、監督から「犠牲の精神が分からない人間は社会をよくすることはできない」と伝えられ、次の大会でメンバーから外される。

 

というあらすじです。これについて、

 

「私が星野君やったら指示通りにバントするかな。」
「マジか、俺は犠牲の精神なんてイヤやからバントなんてせんわ。」
「俺はバントもけっこう好きやから、喜んでバントすると思う。」

 

というように、登場人物、星野君の立場に立って、主観的に感想を言い合うわけですが、そこに星野君は不在です(笑)

 

こんなもんで星野君の気持ちなんてわかるか!星野君になりきったてめぇの気持ちしかわからんわい!(笑)

 

 

だから道徳教育では人の気持ちなんて分かるようにならないから、お互いいつまで経っても平行線なんだけど、その平行線を良しと考えられるように仕向けるのが道徳教育です。

 

まとめると、道徳教育は人の気持ちをわかる術までは教えないけど、ひとまずいろんな考えの人がいるからその多様性を認め合おうね♡

 

って感じですかね、たぶん。(異論があったら教えてくださーい)

 

 

 

国語では人の気持ちを言い当てることが求められている

 

一方で国語の物語文章はどうでしょう?

この学習指導要領にもあるように

 

「場面の移り変わりに注意しながら、登場人物の性格や気持ちの変化、情景などについて、叙述を基に想像して読むこと」

 

 

読み手の勝手な主観ではなく、叙述(物事を順を追って述べた文章)をベースに、登場人物の仕草や情景から、ロジックで感情を導いていきます。そして問題となっている以上、必ず答えが用意されています。つまり、国語は人の気持ちを考え、そしてその答え合わせができる教科なんです。

 

 

そこに多様性はありません。答えは一つです。そもそも多様な読み方ができてしまう文章であれば、答えを一つに定める問題なんぞ作れません。

 

それなのに、国語の物語文章を読み解くにあたり道徳のように読み手の主観で「俺が星野君やったらバントしたくない気持ちがわかるわ」なんていうスタイルで臨めば、当然ながらほぼ不正解になります。

 

そういう物語文章の点数が低い人は人の気持ちが考えられない人ってことですから、それはちょっと生きにくそうですね。鬱になる前の私みたい(笑)

 

 

 

叙述(物事を順を追って述べた文章)をベースに客観的に読み解き、人の気持ちを言い当てられるようになる国語と、その人の立場に立って自分の主観で自分本位で考え、人の気持ちを言い当てられるようにならない道徳は、言い換えると、そこには【人と気持ちが通じ合えるようになる国語】と、【一生かかっても気持ちがすれ違いっぱなしの道徳】くらいの差があると思っています。

 

私は、お互い気持ちを分かり合えて(答えは一つ)、その上でいろんな価値観の人たちとお互い認め合える世界に住みたい(多様性あり)ので、一人でも多くの人に、その両方ができるようになっていただきたいです(願望)。

 

 

しかし、人の気持ちを分かってあげたいという思いがあっても、その術、その技術がなければ人の気持ちなんてわかりません

 

だからこそ、本来であれば学校の国語の授業で、物語文章の登場人物を題材に、児童・生徒が人の気持ちを考えられる技術が身につくように育成していくのが、国語教員の務めだと思うわけです。じゃないと子どもたちが社会から干されてしまいかねないですから。

 

しかし実際は、そこまで気高い志を持った教員は、ごく一部に過ぎないと見受けられます。人の気持ちが考えられないまま世に送り出すなんて、なんか物悲しい現実やなぁと私は嘆いています。

 

 

というわけで、次回からは人の気持ちを考えるための「技術」をお伝えしていこうと思います。当然ながら、心理学の要素も取り入れていきます。

 

人の気持ちが分かるようになると、社会で生きやすくなります。ラクになります。そして、結果的に国語の点数が上がります。ラクできるようになるとテストの結果がついてくるわけです。何度も言いますが、テストの点数を上げるために勉強するんじゃないですからねー。

 

 

じゃぁ今日はここまでー。

 

ばいばーい。

 

 

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