掲載元:note(2019年4月2日)

https://note.mu/maegawa_shinsuke/n/n9e6427c41366?magazine_key=m0e09afcfe2eb

【vol.014】 「知は空虚なり」から「英知を持つ英雄」への成長のカギは、「高い抽象度」と「迎合しない性格」

 

 

こんにちは。まえぴょんです。

 

一昨日、チヤホヤされないからモチベ下がってきたというやさぐれたことを書いたら、ちゃんと読んでるで〜と慰められたので、ちょっとモチベ上がってきました。

 

しゃーないなぁ、じゃぁ書いたろかー、なんちって(笑)

 

 

 

知識をうまく活用できない ≒ 応用できない ≒ 「知は空虚なり」

 

とまぁ、そうやってやさぐれながら書いたnoteをシェアしたfacebookの投稿に対して、

 

毎回読んでいます😊
なるほど…、とは思いますが、うまく活用できないでいます😢

 

というコメントをいただいたんですけどね、

 

毎回読んでいます😊

 

という言葉に慰められた次の瞬間、

 

なるほど…、とは思いますが、うまく活用できないでいます😢

 

という課題と向き合うことになりました。

 

「なるほど」って、納得を伴った深い理解だと思うんですけど、それでもその理解した知識を活用できない、ということは、それこそ、昨日紹介したソクラテス先生のお言葉を借りると、

 

無知は罪なり、知は空虚なり、英知を持つもの英雄なり
哲学者 ソクラテス
(紀元前469年頃 – 紀元前399年)

 

の、「知は空虚なり」のステージってことだと思うんです。あくまで私の推測ですけどね。

 

 

なので、今日は一旦国語の授業は置いておいて、このソクラテス先生のありがたきお言葉を紐解くことにします。

 

ほんとはこのあたりの話を3時間目の数学で行う予定だったんですけど、ちょうど良いタイミングなんでもう先出し!

 

 

 

まず知識は絶対に必要!

1st.ステージ 【無知は罪なり】

 

これはいちいち解説しなくても分かるかもしれませんが、無知って人の生き死にに大きく関わりますよね。私は人の命ってけっこう大事だと思うんですけど(思いません?)、その大事なものをカンタンに奪ってしまう物事の一つが、この「無知」です。

 

これは私の例ですが、私は「牡蠣アレルギー」で、牡蠣の現物はもちろん、牡蠣醤油やオイスターソースを摂取してもアナフィラキシーショックで救急搬送されてしまうんです。だから初めて行く飲食店では注文する前に牡蠣成分の有無を尋ねるわけですが、以前、

 

「牡蠣アレルギー?うちはそんなん使ってへんから大丈夫やで。」

 

と軽くあしらわれたことがありました。私は人を信じたい性分ではありますが、あまりにその軽々しさが気になったので卓上に置いてある醤油やソースの表示成分を見てみると、ソースの成分表示欄に「牡蠣」って書いてあったんですよね。

 

 

こ ろ す 気 か !

 

すぐにお店を出ました。

 

 

ソースに牡蠣が含まれていることを調べないのはただの怠惰かもしれませんが、その怠惰を導いたのは食品アレルギーの恐ろしさを知らない「無知」さやと思うんです。それでよくも飲食店を経営しとるな、ほんま。

 

殺す気はなくても人は死にますからね。だからほんと悪気がなくても「無知は罪」です。

 

で、その無知を少しでも防ぐ仕組みの一つが、学校教育システムだと考えることができます。日本国民の頭の中に知識を入れる装置ですね。そういう次元では、この国の公教育は役立っていると思います(ただ、そんな次元じゃ今の時代はネットで賄えてしまうんですけどね・・)。

 

 

 

 

「応用」が効く人は抽象度が高い

2nd.ステージ 【知は空虚なり】

 

続いては2nd.ステージ「知は空虚なり」について。

 

まず今回いただいたこのコメント

 

「なるほど…、とは思いますが、うまく活用できないでいます😢」

 

について、悩むこともあろうかと思いますが、そんなに心配しなくてもいいとも思います。

 

というのも、世の中の大半の人はこのステージにいそうだからです(外国のことはよくわからないですが、少なくとも日本人は)。まぁつまり、あなただけじゃないですよ、って話です。

 

 

この2nd.ステージを噛み砕くと、知識はあるけど活用、応用ができない状態と言えるでしょう。要領よく応用を効かせることができないので、個別具体をたくさん処理していかざるを得ず、疲弊しやすくなります。

 

「要領よく応用を効かせることができないので、個別具体をたくさん処理していかざるを得ない」という抽象表現だけではよくわからないと思うので、ここで一つ例を挙げてお伝えします。

 

最近「薬物依存症」についての報道をよく見かけるので「依存症」の話で例えてみましょう。

 

 

 

そもそも依存症って、精神的に不健全な状態を、何かしらの物事に依存することで気を紛らわせていて、だけど気を紛らわせているだけだから本質的に満たされることなく、またその依存性を高めていく負のスパイラル状態のことを言うんだと私は理解しています(抽象的)。

 

その具体が「薬物依存症」であったり、「アルコール依存症」であったり、「買い物依存症」であったりするわけですが、抽象的にはみんな同じなんです。

 

 

 

こんな感じ。

 

 

先日、ある友人から「買い物依存症」で自己破産しそうな女性のことを相談されました。私は「買い物依存症」の専門家ではないですが、「依存症」の抽象概念をある程度理解していたので、

 

「その女性って、幼少期から親子関係が不健全で人との繋がりに心が満たされず、それをおもちゃとかの物によって埋め合わされてきたクセが大人になっても抜けきらず、買い物が止められないんじゃないですか?」

 

と言うと、

 

「そうやねん!両親が離婚してて、親子関係もよくないとは言うてたわ!」

 

みたいな感じで、その推測がある程度当たるんですよね。これを「当たりをつける」とも言います。

 

同じように、「アルコール依存症」だって「薬物依存症」だって「ゲーム依存症」だって、その「人との繋がりに心を満たすことができず代替の何かで埋め合わせようとするけど、本質的に求めている人との繋がりは得られないから、さらに代替物への依存度を高めていく」という共通点を見抜けたならば、「アルコール依存症」や「薬物依存症」や「ゲーム依存症」などの個別具体をイチから勉強しなくたって、その共通点を当てはめて学べば思考の工数は減るのです。これを応用と言います。

 

 

それに対し、応用を用いない学び方をする人は、「買い物依存症」、「アルコール依存症」、「薬物依存症」、「ゲーム依存症」はそれぞれ個別具体の別のものという認識になって、全てを学ぶためには全部イチから勉強し始めるわけ。

 

そりゃたいへんだって。疲弊しちゃう。

 

 

また今回で言う「依存症」の本質を理解できている人は、その対処法もわかるはずです。そういう人たちは、精神的に不健全な状態になっているところに付け込まれたことが問題なのだと理解しているから、「薬物依存症」の人には刑罰を与えるなじゃんくて適切な治療を与えるべきだ、という主張をしています。禁止薬物を流通させる人に罪があって、依存してしまう人は被害者だから救済すべきだという考え方ができるからですね。ちなみに世界基準もこっちです。
(そのあたりはこの依存症に関するコラムにも書いていますが、もっとつっこんで言うと幼少期の親子関係に原因があることが多く、だからこそそういう意味でも「被害者」であり、治療を与えるべきだと思います)

 

 

その本質が理解できなければ、「いやいや、ルールを破ったんだから厳罰に処さないと」となるんでしょうが、それは至って抽象度が低い人の発想です。そもそもルールは守るべきものなんでしょうか?

 

そもそもルールは何のためにあるのか?という抽象度の高さで考えると、答えが見えてくるかもしれません。
(「そもそも」って抽象度を上げたい時に使える便利な言葉です。)

 

ルールって、社会の秩序を保つためにあるんです。で、我々民主主義国家においては、それらのルールを我々国民が作ります(全員では決めにくいから、選挙で我々の意志を汲んでくれるであろう代表を選んでその代表たちに決めてもらいます(間接民主制))。そしてそれを守ることで社会秩序が保たれるか検証し、必要に応じて変えていくものなんです。実際に法改正ってあるでしょ?

 

だから、そうやって抽象度を上げて考えると、ルールとはまず作って、守ることで社会秩序が保たれるか検証して、必要に応じて変えるものだから、「ルールを守る」というのは、ルール全体の中のごく一部分のプロセスに過ぎないことがわかります。

 

つまり、「ルールは守るべきものだ」という考え自体が抽象度が低いし、その抽象度の低さでは物事の根本解決には至らないってわけです。

 

ルールを守らない奴には罪を与えよう、なんてことをしてもモグラ叩きのようなもんで、この手の「犯罪」の根本解決にはなりません。飲酒運転を厳罰化しても、根絶に至らないでしょ?最高刑が死刑の殺人犯罪だってこの世から無くならないんですから。つまり罰を与えるアプローチによる秩序維持には限界がある、ってことです。

 

だから今回だと「刑罰化」ではなく「治療」という別のアプローチができるようにルールを変えた方が、個人にとっても社会にとっても有益なんじゃないか、っていう議論が起こっているわけです。

 

 

また、応用が効かない人は、世の中で起きていることが自分ごとになりにくい(自分に応用が効かない)という特徴もあります。

 

 

例えばどこかの国で起きている戦争と、我が家の夫婦喧嘩が全く別のものにしか見えないとか。その戦争の原因と夫婦喧嘩の原因が抽象度を上げて見れば同じなのに(例えば「誤解」とかね)、全く別の個別具体にしか見えないから、その内戦のニュースから学んで自分の人生に活かすことができないんです。「やっぱり代表同士の対話が重要だよねー」と、どこかの国の戦争には言えても、我が家の夫婦喧嘩に活かせない。

 

社会科のテストで100点取った!心理学のテストでも100点取った!でも夫婦仲が悪いねん。。とか、なんのために勉強しとるねん!っていう話です。
(私は2回結婚しているのでその点はなんとも言い難いですが( ̄∀ ̄))

 

 

私は常々「学びの拾い食い」を推奨しているんですけど、それってこうやって抽象度を上げて同じ括りを作って自分ごとに持っていけたら、わざわざカネを払って学びに行かなくても拾い食いで十分でしょ、っていうことなんです。
(私が以前鬱に陥っていた時は、これらの応用ができずに苦労しました。。)

 

 

 

以上をまとめると、

 

応用が効く人は、本質を掴んで「全部同じ抽象だ」と言う。
応用が効かない人は、本質が掴めないから「全部異なる具体だ」と言う。

 

前者は構造を理解しそれを応用できるから、脳内の作業工数が少ないにも関わらず理解の幅や総量が大きく、さらに本質的な解決に向かえるし、自分に応用を効かせて学びの拾い食いができるから、どんどん豊かな人生になっていきます。

 

後者はかなりの勉強量をこなしても前者においつけないし、根本解決ではなく場当たり的な解決方法しか思いつかないし、そもそも自分に応用が効かないから人生が豊かになりにくいのです。

 

 

どっちがいい?

 

 

 

 

応用ができない理由

 

それにしてもなぜ多くの人がこの応用ができないんでしょうか?まぁ理由はいろいろあるでしょうけど、私が考える応用ができない理由の一つは、応用の仕方を教えてもらったことがないから。至って単純です。私の知る限り、公立の中学校・高等学校の教員も9割以上がこの2nd.ステージに居ますから、そこで応用の仕方を教わるなどは期待できません

 

だって仕方ないんですよ、学校の先生だって教わってきてないし、また学校の先生をマネジメントしている管理職や教育委員会だって教わってきてないんだから。このあたりが日本の学校教育の闇やと思うんですよねぇ。。

 

それもあって、私が開催するこの手の勉強会の参加者は、過半数が学校の先生です。中には町内の小中学校の校長、教頭を全員集めて私の勉強会を開催された教育長もおられました。なぜそんなことが起こるのかって、他にそういう勉強ができる場が見受けられないからでしょうね。私も知らんし。

 

 

だからもちろんそのあたりの応用の仕方もこのnoteに書いていきます。ちょっと先になりますが、3時間目の数学の時間にこの応用の仕方についてもっと深掘りするので、その時がやってくるまでお待ちください。だから、今は応用できなくてもいいです。理解さえしていただけたら。

 

別の言い方をすると、その3時間目の応用トレーニングをするためには1時間目で学んでいる国語の知識が必要なわけです。

 

 

 

 

応用できる人には性格的な特徴がある

3rd.ステージ 【英知を持つもの英雄なり】

 

このステージに入ると、持っている知識を使って実践し、試行錯誤を経て、持っていた知識が知恵(英知)へと進化している感じですね。行動しながら考えもするから、物事を体系立てて理解し、行き当たりばったりではなくて臨機応変に対応できるようになります。

 

で、こういう人って言われたことをそのままやるのではなく、自分の頭で考え、実際に行動しているんですよね。長いものに巻かれない人。迎合しない人。これらの人種は日本の中には1割もいないような気がします。

 

そして、その1割弱の人たちは嫌われやすいです(笑)不文律に従わないと集団からはじき出されることが多いですからね、この国は。私も地域の嫌われ者です。そのデメリットを受けてでも迎合せずに生きていく道を選択するのは、並大抵の精神力では難しく、必然的に少数となるんでしょうね。

 

 

逆に、そんな精神力はありません!と言う人は、長いものに巻かれる戦略を取ることになるんでしょう。その場合、自分の頭で考え実践すれば叱られることが多々あるので、自分の頭で考えないようになります。その時点で成長は止まりますから、それでいて賢くなりたい!というのは二律背反です。どっちかを諦めてください。

 

 

あ、でも、中には組織人として表面上は言われたことだけをやっているように見えるけど実はこの3rd.ステージに居るんだよね、っていう人もいます。そういう人は上司に言われた通りに従いながら、「俺が上司やったらこうするけどなー」と心の底では服従せずに思考を止めていない人です。面従腹背ってやつです。

 

「は?」と思うことがあればすぐに顔に出てしまう私からすると、これができる人は本当に素晴らしいと思います!有能!無駄に敵を作らないですしね(学校の先生を含む公務員でたまに見かけますが、早く市長になってくださいよー)。

 

 

 

 

これからの時代の「安泰」とは3rd.ステージに上がること

 

先ほど長いものに巻かれる生き方について話しましたが、これからの時代は長いものに巻かれなくても生きていきやすくなると考えています。

 

それをもたらすのはテクノロジーの進化なんですが、個人で物やサービスをエンドユーザーに届けられるビジネス展開もしやすくなったし、SNSのおかげで個人レベルでの情報の送受信が容易になったから、組織の中で働く以外の働き方や、地域に密接に関わらずとも生きていく方法が見えてくるようになるはずです。「全体主義」から「個人主義」への社会的変化が加速するわけですね。

 

だから長いものに巻かれる必要性が下がってくるので、巻かれない生き方を目指す人は増えていくと思うし、実際に3rd.ステージに上がる人は今の私の1割弱という目算から、その割合は増加していくようになると思います。いわば、最先端の生き方?わかんないけど。

 

まぁそもそも(←抽象度UPワード)、その「長いもの」という組織自体が安泰なのか、っちゅう話も大切ですよね。初めは豪華客船で優雅に過ごしていたタイタニック号が沈んだように、今や大手企業が倒産を迎えることだって多々あるわけです。

 

ならば公務員だったら安泰だろう!と思う人もいるかもしれませんが、私はどうもそれが怪しいと感じてるんですよね。

 

私の友人のキャリア官僚たちを見ていてもわかりますけど、彼らってめちゃ優秀なんですよ。だから官僚じゃなくても引く手数多でメシが食えるから、そんな「安泰」を捨てるハードルは相対的に低いんです。

 

なので、国家公務員でもクビにできるように国家公務員法を法改正しても、そんな暴動が起こるようなことはないように思います(これはかなり雑な推察)。

 

暴動が起こるとしたら、国家公務員法に準拠している地方公務員法に縛られる地方公務員じゃないでしょうか。キャリア官僚たちと比べると、そこまで引く手がないでしょうから。

 

そして今、公務員の副業が認められてきていますよね。

 

国もそうですし、地方自治体でも財政難な基礎自治体が多いですよね。

 

人件費を減らせば財政難って緩和されますよね。

 

AIが人並み以上の仕事ができる時代になってきましたよね。

 

ルールって必要に応じて変えていくもんでしたよね。

 

 

公務員って、本当に安泰なんでしょーか?どうもあやしい。

 

 

この変化の波が激しい時代において「安泰」と言われる組織なんてないでしょうから、どんな組織に属したところで安泰は望めないでしょう。それよりも、この変化の波を楽しくサーフィンできる自立的な個人に成長させる(≒3rd.ステージに上がってくる)ことこそが、真の「安泰」なんだと私は考えています。

 

 

で、話を学校教育に向けると、きっと学校教育でも児童・生徒をこの3rd.ステージのレベルに育て上げたいんだと思います。学習指導要領に目を通しても、その意図が感じられます。さすが文科省。

 

だけど、現実問題学校ではムリだと思われます。特に公立。だって、学校現場で教鞭を執っている教員の大半が学校の常識や慣例に従ってるだけで自分の頭で考えて行動していない2nd.ステージに居るので、そんな人たちからすると子どもたちを3rd.ステージへ引き上げる方法がわからないだろうから。自立できていない人が、どうやって自立的な人を育てられるのか。富士山に登ったことのない人が、その登り方や頂上からの景色の素晴らしさを語る空虚さたるや。

 

こういうことを書くから嫌われるんです。知ってます。だけど、嫌われても楽しく生きていられるんだ、ということを地で行くところを見せるのも、次世代の人材育成を行う者の務めだと思うので、これからも率先して嫌われましょう(ほんとはちょっと辛い)。

 

あ、誤解のないように付け加えておきますが、大企業のサラリーマンだって公務員だって学校の先生だって、3rd.ステージに君臨している人がちゃんといますからね。面従腹背な人もいれば、迎合せずに反旗をひるがえす人だっています。ただ、割合として少ないだけです。

 

 

 

 

まとめ

 

さて、ここまでをまとめると、

 


・1st.ステージの人は人を育てることができないし、悪意なく人を殺めることがある。

・2nd.ステージの人は、1st.ステージの人を2nd.ステージに引き上げる教育はできても、2nd.ステージの人を3rd.ステージに引き上げる方法がわからない。大半の公立の学校がこんな感じ(私立はよく知りません)。

・3rd.ステージの人は、人を3rd.ステージへ引き上げる方法をある程度知っているが、とは言え引き上がる側には、腹の底では人に迎合しない生き方を選択しないと3rd.ステージには上がれないというハードルがあるから、全ての人が3rd.ステージに上がれるわけではない。ただ、これからの時代はテクノロジーの進化で全体から個の時代になっていくし、そもそも安泰な組織なんて激減するだろうから、3rd.ステージを目指す人が増えてくるだろう、というまえぴょん予想に基づき、3rd.ステージに行ける人材育成をしちょるなう。


 

こんな感じかなぁ。

 

あ、あと、何も意図しなくても勝手に3rd.ステージまで育っていく場合もあると思います(笑)それは当人の自己肯定感がやたら高い場合でしょうね。

 

そうそう、私は人をこの3rd.ステージまで引き上げるためには、

 

・人から白い目で見られても耐えられるだけの自己肯定感
・自分の頭で考えるだけの論理的思考力(特に抽象思考力)

 

が大切だと思っていて、それらを高める人材育成を行うNPO法人他力本願研究所を昨年立ち上げ、活動しているところです。そしてこのnoteでは、そのうちの「抽象思考」に特化して書き進めていくつもりです。

 

 

今回はぜんぜん国語の授業じゃなくなっちゃったけど(笑)、まぁ目指している世界観をお伝えできたかと思うので、今1時間目に行なっている授業に意味を見出してもらえたかも。そう思うと、ここで一旦この話題を挟めてよかったかな。

 

 

では明日からは第5章「物語文章を抽象度で斬る」をお伝えしたいと思います。意外かもしれませんが、物語文章も抽象度が大切なんですよ!!!

 

 

じゃぁね、ばいばい。

 

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